庄原とメタボリックシンドローム
2007年7月19日
2007年6月、メタボリックシンドローム講演の後、国保連の理事の方に「保健指導が医師、保健師、管理栄養士に限られているのはおかしい。食事と運動が基本なので、食事療法のできる栄養士だけでなく、運動指導のできる健康運動指導士なども入れた方がいいのではないか」と言われた。
私が広島県庄原市出身とわかると理事は「永山忠則自治大臣には若い頃随分お世話になった。庄原には大物政治家が多い」と言われた。故永山議員は私が庄原格致高校の時、大臣になられた。高校生全員が大臣と握手をして、夜は提灯(ちょうちん)行列をした。
1986年9月イスラエルで国際肥満学会があった時、東京大学第2内科出身の井上修二先生(前日本肥満学会理事長)に庄原出身だと話をした。井上先生は「庄原には偉い人が多い。東京大学小児科の教授だった高津忠夫先生も庄原ではないか。輸液に使うソリタT3のTは高津(たかつ)忠夫のイニシャル(T.T.)から名付けられたものだ」と言われた。
1992年6月大阪の太閤園で、広島大学第1内科(消化器)の梶山悟朗教授と食事をしたとき「東京大学第3内科から山口大学に行かれた竹本忠良教授も庄原だ。庄原は広島県でも特別な地域だ」と言われた。竹本先生は日本消化器学会のドンとも呼ばれていた。
2002年6月大阪の阪急インターナショナルホテルで、プロ野球のオーナーが「財界には庄原出身者が多いですよ」と、外資系生命保険会社社長など、3人の社長さんの名前をスラスラと言われた。3人とも初めて聞く名前だった。地元では政治家ぐらいしか話題にならない。人口わずか2万1000人の街で、庄原出身の社長の頻度が高い。
「出家とその弟子」「愛と認識との出発」などを執筆した倉田百三も、私の家の近所だった。何故、庄原は政界、財界、医学界、文学界、宗教界に多くの人材を輩出しているのか。2007年7月、庄原の歴史に詳しい住職を訪ねた。
江戸時代から庄原の旧家は文化を重んじた。明治時代に資産家が寄付をして、白亜の洋館庄原英学校を建て、明治19年米国からランバス父子を呼び寄せた。「今ならビルゲイツを呼んで、マイクロソフト社を立ち上げたようなものだ」と住職は言われる。3年後の明治22年に、息子のランバスは兵庫県西宮市に関西(かんせい)学院を創立している。
庄原英学校では英学、数学、漢学の3教科を教えている。当時、最新の英語や数学を採り入れると同時に、簡潔な文章を書く漢学も残している。庄原英学校には遠方からの生徒が多く、草鞋(わらじ)をすり減らして通学した。高津忠夫の父親は6kmの道のりを草鞋を履いて通っていたそうだ。
人材育成もメタボリックシンドローム対策も教育が重要だ。
私が広島県庄原市出身とわかると理事は「永山忠則自治大臣には若い頃随分お世話になった。庄原には大物政治家が多い」と言われた。故永山議員は私が庄原格致高校の時、大臣になられた。高校生全員が大臣と握手をして、夜は提灯(ちょうちん)行列をした。
1986年9月イスラエルで国際肥満学会があった時、東京大学第2内科出身の井上修二先生(前日本肥満学会理事長)に庄原出身だと話をした。井上先生は「庄原には偉い人が多い。東京大学小児科の教授だった高津忠夫先生も庄原ではないか。輸液に使うソリタT3のTは高津(たかつ)忠夫のイニシャル(T.T.)から名付けられたものだ」と言われた。
1992年6月大阪の太閤園で、広島大学第1内科(消化器)の梶山悟朗教授と食事をしたとき「東京大学第3内科から山口大学に行かれた竹本忠良教授も庄原だ。庄原は広島県でも特別な地域だ」と言われた。竹本先生は日本消化器学会のドンとも呼ばれていた。
2002年6月大阪の阪急インターナショナルホテルで、プロ野球のオーナーが「財界には庄原出身者が多いですよ」と、外資系生命保険会社社長など、3人の社長さんの名前をスラスラと言われた。3人とも初めて聞く名前だった。地元では政治家ぐらいしか話題にならない。人口わずか2万1000人の街で、庄原出身の社長の頻度が高い。
「出家とその弟子」「愛と認識との出発」などを執筆した倉田百三も、私の家の近所だった。何故、庄原は政界、財界、医学界、文学界、宗教界に多くの人材を輩出しているのか。2007年7月、庄原の歴史に詳しい住職を訪ねた。
江戸時代から庄原の旧家は文化を重んじた。明治時代に資産家が寄付をして、白亜の洋館庄原英学校を建て、明治19年米国からランバス父子を呼び寄せた。「今ならビルゲイツを呼んで、マイクロソフト社を立ち上げたようなものだ」と住職は言われる。3年後の明治22年に、息子のランバスは兵庫県西宮市に関西(かんせい)学院を創立している。
庄原英学校では英学、数学、漢学の3教科を教えている。当時、最新の英語や数学を採り入れると同時に、簡潔な文章を書く漢学も残している。庄原英学校には遠方からの生徒が多く、草鞋(わらじ)をすり減らして通学した。高津忠夫の父親は6kmの道のりを草鞋を履いて通っていたそうだ。
人材育成もメタボリックシンドローム対策も教育が重要だ。