阪神淡路大震災とメタボリックシンドローム
2008年6月12日帰宅時、
公園の緑の木の中から、チュンチュンと鳥のさえずりが聞こえる。入り口には膝の上に時計を置いたマリーナ像があった。プレートには「阪神淡路大震災により、このマリーナ像が倒れ、時計が壊れました。震災の記憶を永遠にとどめるため、その時を示しています」と書いてある。
1995年1月17日午前5時46分、地震が起こった。ベッドに寝ていた体が南北に大きく揺れた。タンスが私の使っている椅子の上に倒れていた。本棚が倒れ、部屋に本が散乱していた。子供達の無事を確認し、病院に向かった。所々家が傾き、道にせり出していた。
市立伊丹病院の前の道は、両側に車があふれかえっていた。しかし、職員駐車場はひっそりとし、がらがらだった。裏門から正面玄関前のフロアに行くと、床に血が点々としており、100人以上の人で騒然としていた。
医局のドアは中のロッカーが倒れて空かず、内科医は当直の林君だけがいた。エレベーターは止まっており、階段で受け持ちのある6階に行った。6東病棟で1人、6西病棟で3人の患者さんが落ちてきたテレビで、頭部を打撲していた。
そのうち、毛野義明先生と柏原赳先生(現伊丹病院副院長)が来られ、内科4人、外科系3人の7人で診療をした。
重症と頭部の負傷者は外科系の医師が処置し、ガラスの破片などで切った四肢の負傷は、内科医で縫合することになった。足の踵など皮膚の硬いところは針が曲がっててこずった。心筋梗塞の患者さんが入院してきた。水道管が破裂し水浸しになった階段を、5階のCCUまで6人がかりで担架で運んだ。
ラジオでは地震で、20人の負傷者が出たと放送している。伊丹病院だけでも2人が屋根で押しつぶされ死亡し、100人以上の負傷者がいる。情報が遅い。昼前になって多くの先生が来られた。6階に行き、神戸の方向を見ると、あちこちから煙が出ていた。
午後になり、柏原先生の右頬に傷があることに気付いた。聞くと、倒れてきたタンスの角が当たったと言われる。頬の傷は口腔内まで貫通していた。道が渋滞だったので西宮の家から10kmの道を自転車で来られたという。自らの体を後回しにしても、負傷者の手当をされていた。
毎日、メタボ対策に異なったコースを歩いて帰宅すると、いろいろな過去の記憶がよみがえる。