癌・メタボリックシンドロームと終末期医療
日本人の3分の1は癌で亡くなる。2003年のWHO報告では、メタボリックシンドロームは大腸がん、乳がん、子宮内膜がんと関連するとしている。また胃がん、肝がん、胆嚢がん、膵がん、前立腺がんなどと関連するという報告もある。
私の祖父が胃癌で亡くなったのは、大学1年生の時だった。私の母は3人姉妹の長女で、私は祖父にとって最初の男の子だった。
1968年12月23日、化学の試験がすんで、特急「しおじ」に乗った。広島で乗り換え庄原駅に降りると父がいた。タクシーに乗って、真夜中12時35分、庄原日赤病院に向かった。日赤病院の前の道路まで、おばさんが2人来て待っていた。
父が「急ぎんさい、危ないんじゃ」と言うので、雪どけのどろどろ道を走って、病室へと向かった。室内には重苦しい空気が充満していた。「間に合ってよかった」誰かが言った。「お孫さんが帰って来られましたよ」年寄りの看護師さんが言われた。
みんな目をはらし泣いている。僕は何か言わねばならないと思った。「おじいちゃん、帰ってきましたよ。勝人ですよ。勝人が帰ってきましたよ」何を言っていいのか、あとがつづかなかった。
祖父は大きな目をギョロつかせ、こちらをずっとにらみつけていた。頬はそげ、手はあまりに細くなったため、手の甲がぶきみに大きく見えた。鼻に入れられた酸素吸入のための管が痛々しい。ハーハー苦しそうな鼻息が聞こえる。
カンフル注射をされた。とても入りにくそうだ。「もう打たないで下さい。早く楽にして・・」「12時半、12時半と言うとっちゃったが、もう1時じゃね。よう頑張っちゃった。やっぱり本孫に会いたかったんじゃね。辛抱強い人じゃったから」
綿をぬらして、口をうるおしてあげた。舌をぬらしてあげようと思っても、歯が全然動かずどうにもならない。祖父の手を握った。6人の孫の中で、1番僕を頼りにしていた祖父。留学しろと祖父は言った。自動車を買ってやると祖父は言った。ずっと僕のことばかりを言っていたという。
祖母が大きな声で、耳元で言うが少ししかわからないらしい。意識はほとんどないようだ。目も開けているだけなのだろう。母が体をさするが、わからないらしい。「昼には非常に痛がっていたのに」
僕は「早く帰ってあげればよかった、化学の試験を受けずに。危篤だと電話が来たのは、土曜の午後4時だった。それから今は、火曜の午前1時だ。57時間も僕を待っていてくれていた」と思った。
「今度は顎で息をするようになりますよ」看護師さんの声が響く。だんだん息が弱まっていく。みんなじっと見つめている。「もうすぐ天国に行けますからね。楽しい、楽しい園がありますからね」「きれいなお花に囲まれて・・・」祖父は息を引き取った。