学園紛争とメタボリックシンドローム
2009年10月22日、私は丁度41年前の日記を読んでいる。大阪大学1年生の時のものだ。私を含め、大部分の学生はノンポリだった。41年後には、私が書いたメタボリック教室を読むことはないだろう。
1968年10月22日4時限の時、過激派の人が1人、ロ号館15教室に入ってきた。茶色の服を着て、いつも僕達のクラスにビラを配りに来る人だった。
マイクを持って演説を始めたが、ほとんどの人は聞いていないように思えた。その上、マイクが悪いためか、声がとぎれとぎれになり、聞こうと思ってもなかなか聞き取れなかった。
"そんなに話しても、だれも聞いていないのに、何のために話しているのだろう。かわいそうに"と思っていると、後ろの方で笑い声が聞こえてきて、ますます彼が孤独に見えてきた。
その時、保健体育の先生が入って来られた。それでも彼は疲れた顔で、どんよりくもった目をして、あまり自信のなさそうな声で話していた。
先生は窓側に行かれたが、彼はいっこうに話を止めようとはしなかった。"もう、そろそろカンパの袋を出して、先生に追い出される前に教室を出た方がいいぞ"と、はらはらしながら見ていた。
それは6月4日国際空港デモの前日、彼が話している時、生物の先生が入って来られ、先生が何度も大きな声で注意されたあと、ようやく教室を出て行ったことがあるからだ。
しかし、先生は争おうとされず、2~3言葉言って、黒板を消され始めた。"今のうちだ話を止めるのは。何の効果もないことをしゃべったって。何にもならないじゃないか"と彼に同情した。
先生が黒板を消し、こちらを向かれたころ、ようやく彼は話を終えカンパを求めた。"カンパをしても、どうせ集まりはしないのに"と思っていると、意外にも先生が「チャリン、チャリン」と、その袋の中にお金を入れられた。
その時、彼は笑った。確かに笑ったのだ。これまで一度も彼から見られなかった笑い。彼にも喜びがあったのか。先生も幾分微笑んでおられるように思えた。
彼はカンパ袋を回すのも忘れ、この前とは反対に飛び出すようにして教室を出て行った。
もし、彼が大学に入った当時、こんな親切を受けていたら過激派に入ることもなく、みんなと打ち解けあったことだろう。
4日前の昼の休憩の時、ロ号館の芝生に一人で突撃して行った彼にも情があったのだ。"今度、保健体育の先生が派閥争いの仲裁に入られた時は、彼はきっと、先生の言われることに従うだろう"と思うと、僕の目に涙が浮かんで来た。
つい最近、先生が医学部のプロフェッサーとけんかして、教養部にまわされたと聞いていただけに、人生の花道からそれた先生と彼との心のつながりに、僕は任侠映画を見た時の感動を覚えた。