英語特区とメタボリックシンドローム
2009年10月23日の朝刊に「大阪府知事が英語特区構想」「大阪空港廃止後の跡地利用策」の2段見出しの記事が載った。
関西空港のハブ(拠点)化を目指し、大阪空港の廃止を提唱している橋下徹知事は、空港廃止後の跡地利用策として外国人の定住や経済活動を進める英語特区を整備する構想を明らかにした。近く国の"国家戦略室"への提案にも構想を盛り込む方針だという。
橋下知事によると、英語特区は約500ヘクタールと想定される跡地のうち約300ヘクタールを活用。外国人の定住や経済活動の促進を図り"完全な英語生活圏"を整備するという。橋下知事は「英語漬けで数カ月生活すれば、英会話もできるようになる」と教育効果も期待している。
1964年2月から11月まで10カ月間、大阪大学は学園紛争で休校となった。私が大学2年の時のことで、同級生の福並正剛君と、1964年の8月、大阪市北区西梅田にあるECCの夏季特別集中講座に通った。
毎日朝9時から夕方5時まで、昼の休憩も日本語厳禁の英語特区だった。20名1クラス男女同数で、黒板の前にインストラクターがいて、生徒はコの字型に座った。毎日8時間、顔を向き合わせて生活していると、みんな家族のように仲がよくなり、他大学とのいい交流の場となった。
関学生とは豊中市待兼山にある大阪大学テニスコートで、朝6時半から7時半まで、阪大のテニス部が練習に来る前、時々テニスをやった。近畿大学薬学部の人とは曲を作り、近大生が作詞し、私が作曲した。関西大学の落研で桂三枝の後輩もいた。人気者の阪大亭イージリーはIBMに就職した。
わずか1カ月間だけだったが、その後も交流はつづいた。横浜市大のS君とは、横浜市金沢文庫にある彼の下宿に9月12日から3泊4日し、鎌倉・横須賀・浦賀・城ガ崎など案内してもらった。
ECCの同窓会も開いた。クラスで一番よくできたミセスオー(お茶の水女子大卒)が私に勧めてくれた"徒然草"は、今も愛読書となり時々読んでいる。商社でOLをしていた人は翌年開催された大阪万博のコンパニオンとなり、広島大学医学部の人といっしょに万博に訪ねて行った。
ジョン(福並君)は英国ロンドンに留学し、メタボリックシンドロームの帰結である循環器専門医として活躍し、イッチャ(私)は米国ロサンゼルスに留学した。
日本人の海外への留学が減少している。英語特区を作れば、英語にも興味が沸き、海外の人とも交流ができのではないだろうか。英語特区は若い人の刺激にもなっていいかもしれない。