松下幸之助・水戸黄門とメタボリックシンドローム
2010年1月16日、東映の映画監督から「水戸黄門誕生秘話」を聞き、大阪府門真市にある松下幸之助歴史館に行った。
松下幸之助歴史館の前には大きな木があり、松下電器産業労働組合が1987年に松下翁92歳の誕生日を祝って贈った大きな銅像が建っていた。「一貫して"ものをつくる前に人をつくる"を信念に、"対立と調和"の精神に基づく健全な労使関係の発展に尽くした」と書かれてある。
先日、東映の映画監督が京都太秦から、わざわざ兵庫県伊丹市にある私の家まで、昭和50年代に使われていた医療器具や写真、本、フィルムなどを借りに来られた。吹田にある大阪大学病院には30年前のものは、無くなっているという。
昭和50年代の、大阪市北区堂島にあった大阪大学病院での病棟回診や研究室のことを話した。コーヒー一杯のつもりが、いつの間にか3時間経っていた。
どんな白衣だったか、ネクタイはしていたのか、何人ぐらいで回診をしていたのか、名札は顔写真が入っていたのか、聴診器は首に巻いていたのか、研究室の机の色は何色でどんな配置だったのか、廊下の通路はごちゃごちゃしていたのか、など詳しく聞かれた。
撮影する今の吹田にある大阪大学の研究室は、どの机にもパソコンが入っているそうで、当時はパソコンもなかったと気付いた。用紙もA4ではなく、B4サイズを主に使っていた。時代考証について、番組放送後、必ずクレームの手紙が何通か来るそうだ。一つ一つの作品が、こうやってできていくのかと感心して聴いた。
東映の監督は、京都太秦の水戸黄門制作に関わっている方だった。水戸黄門は松下幸之助がスポンサーで始められたもので、「大人の鑑賞に堪える、質のいい番組を残しておかなくてはならない。水戸黄門はずっと続けるように」という松下幸之助の遺言で、今もパナソニックのみ一社の提供になっているという。
松下幸之助歴史館の展示は、日本語と英語と中国語で聞けるようになっていた。1979年に2度松下幸之助は中国を訪れ、1979年既に「21世紀は、アジアの時代になる」と話している。1980年には政財界の指導者を養成するため、松下政経塾を設立している。
「水戸黄門」が松下幸之助によって始まったのは1969年で、東野英治郎、西村晃が黄門を演じ、1989年松下幸之助は没している。山上路夫が作詞した"人生楽ありゃ苦もあるさ・・、人生勇気が必要だ・・、なんにもしないで生きるより、何かを求めて生きようよ"の主題歌もいい。
松下幸之助の遺言が20年生き続け、東映太秦は「水戸黄門」を制作できている。