黒田官兵衛ゆかりの街とメタボリックシンドローム
2011年2月18、19日、福岡国際会議場で第45回糖尿病学の進歩(山田研太郎会長)が開催され、3000人が参加した。
2月19日午後2時、「肥満の臨床と治療の展望」の教育講演をした。福岡はメタボリックシンドロームにとって天下分け目の戦いの場になった所だ。2003年3月31日、ホテルオークラ福岡で日本内科学会評議員会が開催され、松澤佑次教授が220票対180票の僅差で内科学会会長に選出された。2年後の2005年4月、日本内科学会など8学会によってメタボ診断基準が発表された。
黒田官兵衛・長政親子は天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川軍につき、福岡52万石の城主となっている。福岡の地名は黒田家再興の地である、岡山県福岡にちなんでいる。
黒田官兵衛は竹中半兵衛とともに、豊臣秀吉の軍師として知られている。官兵衛は鳥取城兵糧攻め、高松城水攻めを献策し、本能寺の変の時は毛利輝元と和睦し光秀を討つよう秀吉に進言し中国大返しを成功させている。
戦国時代の軍師に興味を持ったのは、中学1年の時からだ。両膝関節炎で1カ月間寝たきりになった時、父の書斎に第1巻から順に並べてあった吉川英治の太閤記を毎日1冊ずつ読んだ。
午後4時、黒田官兵衛ゆかりの城、福岡城に行った。城跡にある大きな石垣には大木のあとが残り、白い水仙の花が咲いていた。二層になっている潮見櫓の裏の広場では、少年たちがポカポカ陽気の中、サッカーやキャッチボールをしていた。官兵衛は隠居後、子供たちと遊ぶことを楽しみとしていたという。官兵衛はここで晩年、59歳で亡くなるまで悠々自適な生活を送っていたのか。
午後4時25分、官兵衛ゆかりの刀があるという福岡市博物館に行った。小田原攻めの時、秀吉と北条早雲の間を取り持った功績として、官兵衛に与えられた国宝「名物日光一文字」が飾られていた。隣の展示室には、2.3cm四方の小さな金印の国宝「漢委奴国王」が飾ってあった。
午後9時、官兵衛が1年間閉じ込められていたJR伊丹駅前にある有岡城跡に行った。官兵衛は織田信長の家臣だった31歳の時、信長に反旗を翻した荒木村重を説得すため有岡城に行き囚われの身になっている。官兵衛は日も射さぬ狭い牢獄の中で、左脚の関節障害と、頭に醜い瘡を患っている。
有岡城跡の石段を昇ると平地があり、木が何本かあるだけで人一人いなかった。東の空には満月が見える。城跡に少しの間たたずんでいるだけで、底冷えがしてきた。暖房もなかった時代、官兵衛はどうやって冬の寒さをしのいでいたのだろうか。