東北地方太平洋沖地震と三陸海岸ひとり旅
2011年3月11日金曜日午後2時46分、マグニチュード9.0という世界最大級の東北地方太平洋沖地震が発生した。
職場の待合室のテレビの前には人だかりができていた。東北地方に大地震が発生し、どす黒い津波が田畑や家を飲みこんでいる。大地震発生から3日間、各テレビ局は大地震による津波の映像を流し続けた。旅をしたことのある想い出の港町が次々と津波に襲われ、家屋や自動車が流され壊滅していた。
1971年3月4日、大学4年生の春休み、急に北国行きを思い立ち、夜明けとともに旅に出た。JR大阪駅で東北周遊券を買い、東京から郡山を通り、福島県会津若松東山温泉に宿泊。3月5日、野口英世記念館を見て福島飯坂温泉に宿泊した。
3月6日、岩手県平泉中尊寺を見学、三陸海岸の釜石は煙突の多い工場の街だった。JR山田線で大槌町を通り船越にある「たぶの木荘」8畳2000円に宿泊した。3月7日、宮古駅前の食堂で、さしみ定食を食べた。田老はのどかな所で、北に向かうバスは1日2便しかなく、バスに乗り遅れそうになった。北山崎に着く頃には、雪も舞いはじめ、「くろさき荘」8畳2000円に宿泊した。
3月8日、バスで久慈に行き、JRで八戸を通って、青森県むつ市に宿泊。3月9日、大畑、大間から船で函館にわたり、湯の川温泉に宿泊。3月10日は青函連絡船で青森にわたり、三沢古牧温泉宿泊した。
3月11日、1mの雪が積もる十和田湖を見て、秋田に宿泊した。40年前の3.11は秋田にいたのだ。3月12日、男鹿水族館を見学し金浦に宿泊。3月13日、象潟温泉に入浴し山形県鶴岡から上野に行き西宮に帰宅した。9泊10日の想い出深いひとり旅だった。
1993年、一ノ関からJR大船渡線で行った宮城県気仙沼はまぐろ、ふかの遠洋漁業の盛んな街だった。気仙沼(第43段:腎不全と糖尿病)にあった山下清の絵や斎藤茂太の色紙、タクシーで回った大島はどうなっているのだろうか。JR気仙沼線で南三陸町の志津川などリアス式海岸の景色を眺めながら帰った。
2007年、仙台からJR仙石線で多賀城、塩釜を通って行った松島(第74段:夕陽とメタボ)の松の木や船はどうなったのだろうか。
2011年3月18日現在、東北大地震発生から丸1週間が過ぎ、地震と津波による死者は6911人、行方不明者(家族や知人から届け出があったもの)は10754人に上った。約37万人もの人が避難所に身を寄せている。人の命も、街の命も永遠につづくものはない。
阪神大震災の時は被災地の最前線にいて、テレビを見る余裕もない臨床医として最も忙しい2週間だった。今回の東北大地震はとてつもなく広範囲だ。全国の医療機関が支援する必要があるだろう。