映画「コクリコ坂から」と比較幸福論
観客は若者もいるが、中高年が多い。48年前の1963年の話で、主人公は17歳の高校生俊(シュン)と16歳の女子高生海(メル)。団塊の世代が青春真っただ中の時代の物語だった。
メルの住む家は横板を下から被せるように打った外壁の洋館で、私が少年時代を過ごした実家の歯科医院に似ている。予想通り、メルの家は診療所を改築したものだった。ご飯を炊く大きなお釜、手回しで絞る洗濯機、手動の鉛筆削りから舟木一夫、オリンピックまで、昭和30年代の懐かしいものがたくさん出てきた。
シュンは文芸部員で、ガリ版に鉄筆で文字を刻んで新聞を作っていた。私も高校時代はシュンと同じ文芸部員だった。文化祭で「倉田百三、広島県の作家たち」の準備を夜遅くまでやった時は、同級生のお父さんに"おはぎ"の差し入れをしてもらった。退部した時は、3人の後輩部員から「徳永先輩へ」とリボンのついたプレゼントを貰った想い出がよみがえる。
高校時代の文芸誌「砂鉄31号」(1966年3月発行)に、比較幸福論を載せている。「○○に比べて幸せと思え」と考え始めたのは、中学1年の時からだ。苦しい時・つらい時には「飢えの時代に生まれてきた人に比べ幸せと思え」「戦場になっている国の人に比べ幸せと思え」「両足で歩けない人に比べ幸せと思え」などと考えて生きていた。
比較幸福論の立場から死について砂鉄には、「死について考えるのは、それを考える余裕のない人より幸福なのだから、死について心を悩ましてもよい。生きている間は有限だが、死んでからは無限に長い。生まれてこなかった人間より生まれてきた人間の方が幸福なのは、生きている間中、無限の空間の一部を常に独占し、それを自覚することができるからだ」などと書いている。
最近、他人と比較することで不幸と感じている人が多いことに気付いた。「自分より働いていない人が、たくさんお金をもらっている」「口うるさい姑がいない人はいい」「希望の会社に就職できた人が羨ましい」など、他人と比較して自分が不幸だと思い、過食に走り肥満になる人もいる。
幸せかどうかは、その人の心の中に存在する。他人と比較して幸せになる人もいれば、不幸になる人もいる。他人と比較しないことで不幸を感じなくなることもある。比較をする上で最も大切なことは、比較におけるベクトルを誤らないことであろう。