2025医療・介護問題とドラマ「家で死ぬということ」
舞台は岐阜県飛騨の白川郷で、がんで余命3カ月と宣告されたひさ子(渡辺美佐子)は、自宅で死ぬことを望む。東京のメーカーに勤めていた純一(高橋克典)は、休暇をとって、病院に入院するよう義母のひさ子を説得するため白川村へ行く。飛騨は山奥の雪深い所で、私の生まれた比婆郡庄原町(現広島県庄原市)によく似ている。
白川郷には研修医時代の夏休みに、友人と行ったことがある。バスで郡上八幡・御母衣(みぼろ)ダムを通り白川郷へ行き、合掌造りの民宿に泊まった。囲炉裏を囲んで、民宿客と夕食後、話をした想い出がある。
純一が義母のひさ子を背負って家の中を歩くシーンは、父を背負ったこと(メタボ教室第22段「終末期医療」)を思い起こさせ、感情移入して大泣きをした。年をとると涙もろくなる。死を扱うドラマは暗いものが多いが、暖かくて未来に希望を持たせるストーリーになっていた。
2025年には、病院や自宅で医療・介護を要する人が454万人から750万人へと296万人増加すると予測されている。その内、230万人が自宅で介護される見込みだ。2025年には、40%の人が家で死を迎えることを想定し、診療報酬(訪問医療・訪問介護)が増額されている。
後輩の女性医師は「死を看取ったことのない一般の人が、自宅で家族の死を看取るのは難しいのではないか。女性の社会進出が叫ばれる一方で、家庭での介護も求められている。女性の社会進出と家庭での介護は、両立しえない。病院で亡くなるしかないのではないか」と言う。
同級生の医師は「単身の高齢者が増えている。高齢者同士がグループで同じ屋根の下に住み、元気な老人が病気になった老人の面倒をみるなど社会形態を変えなければ、230万人の介護難民が出る可能性がある」と心配する。
がんなどの末期になれば、家の中に誰か一人は必要で、食事・着替え・下の世話もしなければならない。一人ぼっちの夜は恐い。感情の起伏も激しくなり、気分がすぐれないと怒ったりすることもあるだろう。
今後13年間で230万人増える在宅介護者の面倒を誰が受け持つのか?昔のように大家族制に戻すのは、核家族化が進んでいる現代では難しいであろう。
生とはいつか別れが来るもの。人生の最後をどこで過ごすのか?日本文化からすると、家族に見守られ"家で死ぬこと"が本来の姿かもしれない。自分が死ぬ時、どこで誰に看取ってもらうのか、真剣に考える今日この頃である。