63歳誕生日と北山修コンサート
2012年6月1日、63歳の誕生日を迎えた。
薩摩いも焼酎「長寿院」を息子から、お祝いの電話を娘夫妻からもらった。好物のアップルパイに、9本(大6本、小3本)の蝋燭を立て、ハッピーバースデイを歌った。私が1949年6月1日に生まれてから、いつのまにか63年も経っていた。写真は1949年10月の私だ。
メタボ教室も、2006年6月1日から始めて、ちょうど6年になる。初めは職場から頼まれて、4~5回のつもりだったが、427回目になった。これだけ長く続けられたのは、この6年間、家庭・仕事が安定していたことが大きい。
何故、書きつづけるのか。書き終わったとき、達成感があるからなのか。マラソンで長時間走った時、登山者が登頂した時、多幸性物質(エンドルフィン)が出るという。ものを書く時も、脳内からエンドルフィンが出ているのかもしれない。
6月2日、誕生日記念に、北山修コンサート「よいよいよい祭」に行った。午後3時、大阪西梅田にある産経ホールブリーゼの会場は、私と同世代の男女で満席になっていた。前から4列目、右側で観賞した。
杉田二郎が「戦争を知らない子供たち(北山修作詞)」を歌った時は、会場全員がマナーよく座って手拍子をとった。「風(北山修作詞)」の時は、「人は誰もただ一人旅に出て、人は誰もふるさとを振り返る、・・、人は誰も人生につまずいて」と北山修が先に歌詞を言い、観客も一緒になって、会場全体で歌った。
ザ・フォーク・クルセダーズ時代の「帰って来たヨッパライ」や「あの素晴しい愛をもう一度」もあり、出演者のトークが上手で大爆笑になる場面も多く、大いに楽しめた。
午後4時50分、コンサートの途中、永六輔さんが新幹線で駆けつけて来た。パーキンソン病で入院し、リハビリの毎日で、車椅子で舞台に出られた。「"上を向いて歩こう"は、前向きの明るい歌ではなく、悲しみの歌で、涙をこらえ我慢する歌だ」と話された。
高石ともやに支えられて、車椅子からゆっくりと立ちあがり、「上を向いて歩こう」をかすれ声で歌い始められると、会場全体も涙声で歌い始めた。高石ともやも泣いていた。感動的なコンサートになった。
北山修さんは、歌手を辞めた理由を初めて明らかにされた。永六輔さんも、作詞を辞めた本当の理由を語られた。人生の大部分は、悲しみ・苦しみの中にある。老いても若いころのことを想い出し、喜び涙することができる。