竹中半兵衛ゆかりの街とメタボリックシンドローム

2012年11月 5日

    2012113日文化の日、竹中半兵衛ゆかりの街、兵庫県三木市を訪れた。

 

竹中半兵衛は、秀吉の名参謀として知られ、三木城兵糧攻めなど功績を残し、36歳の若さで病死した。この時、秀吉は平井山の本陣で半兵衛の遺体に寄りすがり、人目もはばからず泣き崩れている。

子供のころ、吉川英治の太閤記を読み(産経新聞1988517日「本との生活 表示」)、竹中半兵衛は私にとってヒーローだった。三木市の友人から「半兵衛は三木合戦で亡くなり、市内平井地区に葬られている」と聞き、行くことにした。

 

午前1140分自宅を出発、眩しい日差しの中、中国道・山陽道を通り、三木東インターで降りた。三木では、"金物まつり"をしていた。

 

午後140分、平井公民館横にある駐車場に着いた。車の外は、14℃と寒い。ゆるやかな坂道を登ると、左手に白壁に囲まれた半兵衛の墓が見えてきた。右にはぶどう畑があり、左には黄色い柿がなっていた。振り向くと、三木城のある市内が見える。ここから、半兵衛は三木城を見下ろしていたのだろう。

白壁の中に入ると半兵衛の墓には「1579613日、この平井山で病没された。・・・」と記されていた。上が弧になった四角柱の墓石には苔がむし、その後ろには二又になった大きな木が立っていた。白・黄色・朱色の造花に加え、白と黄色の本物の菊が供えられていた。今も誰かが、墓の世話をしている。

福本錦嶺著「秀吉の参謀」には「秀吉は竹中半兵衛の大志・大望を警戒し、国を与えず、その威望を押さえることに苦心した。よほど半兵衛の軍事的な策略・策謀を恐れていたと思われる。・・・半兵衛は肺がんに罹り生涯を閉じた」と書いてある。半兵衛も、長生きをしていれば、晩年、黒田官兵衛のように悠々自適の人生を過ごせたことだろう。

 

今年3月、新聞社の人と会食した時、「S新聞の"メタボ撲滅キャンペーン"は、いい狙いだ。医療費の増加は老人が増えたためというが、実質は糖尿病による人工透析費用の増加が主体だ。医療費増加を抑制しようとする国と、同じ方向を向いている」と言われた。

S新聞と、ほぼ同時期に始まった2つの新聞社の"がん撲滅キャンペーン"は、肺がん撲滅に対し、いくつかの業界が強力に反対し、実現できなかったという。メタボ撲滅キャンペーンに対しては、ほとんど反対がなかった。

 

医療キャンペーンは、単に医学に詳しいだけでは成功しない。医学的知識に加え、政治・経済・社会情勢に精通したアドバイザーを要する。医療に限らず、あらゆる分野で、竹中半兵衛のような名参謀が必要だ。

徳永勝人 医師
(とくなが かつと)
医学博士


1968年
広島県立庄原格致高校卒業
1974年
大阪大学医学部卒業

内臓脂肪型肥満、
標準体重=身長X身長X22
を提唱する肥満の
第一人者として活動中。

1983年-1985年
南カリファルニア大学
研究員
大阪大学第2内科講師
市立伊丹病院内科部長
大阪大学臨床助教授
兵庫医大実習教授
を経て
高槻社会保険健康管理センター
センター長として勤務

日本肥満学会肥満症診断
基準検討委員会委員
日本糖尿病学会評議員
日本動脈硬化学会評議員

NHK「きょうの健康」での
講師を務める。
著書に
  「肥満Q&A
  「食事で防ぐ肥満症」
 
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