竹中半兵衛ゆかりの街とメタボリックシンドローム
2012年11月3日文化の日、竹中半兵衛ゆかりの街、兵庫県三木市を訪れた。
竹中半兵衛は、秀吉の名参謀として知られ、三木城兵糧攻めなど功績を残し、36歳の若さで病死した。この時、秀吉は平井山の本陣で半兵衛の遺体に寄りすがり、人目もはばからず泣き崩れている。
子供のころ、吉川英治の太閤記を読み(産経新聞1988年5月17日「本との生活 表示」)、竹中半兵衛は私にとってヒーローだった。三木市の友人から「半兵衛は三木合戦で亡くなり、市内平井地区に葬られている」と聞き、行くことにした。
午前11時40分自宅を出発、眩しい日差しの中、中国道・山陽道を通り、三木東インターで降りた。三木では、"金物まつり"をしていた。
午後1時40分、平井公民館横にある駐車場に着いた。車の外は、14℃と寒い。ゆるやかな坂道を登ると、左手に白壁に囲まれた半兵衛の墓が見えてきた。右にはぶどう畑があり、左には黄色い柿がなっていた。振り向くと、三木城のある市内が見える。ここから、半兵衛は三木城を見下ろしていたのだろう。
白壁の中に入ると半兵衛の墓には「1579年6月13日、この平井山で病没された。・・・」と記されていた。上が弧になった四角柱の墓石には苔がむし、その後ろには二又になった大きな木が立っていた。白・黄色・朱色の造花に加え、白と黄色の本物の菊が供えられていた。今も誰かが、墓の世話をしている。
福本錦嶺著「秀吉の参謀」には「秀吉は竹中半兵衛の大志・大望を警戒し、国を与えず、その威望を押さえることに苦心した。よほど半兵衛の軍事的な策略・策謀を恐れていたと思われる。・・・半兵衛は肺がんに罹り生涯を閉じた」と書いてある。半兵衛も、長生きをしていれば、晩年、黒田官兵衛のように悠々自適の人生を過ごせたことだろう。
今年3月、新聞社の人と会食した時、「S新聞の"メタボ撲滅キャンペーン"は、いい狙いだ。医療費の増加は老人が増えたためというが、実質は糖尿病による人工透析費用の増加が主体だ。医療費増加を抑制しようとする国と、同じ方向を向いている」と言われた。
S新聞と、ほぼ同時期に始まった2つの新聞社の"がん撲滅キャンペーン"は、肺がん撲滅に対し、いくつかの業界が強力に反対し、実現できなかったという。メタボ撲滅キャンペーンに対しては、ほとんど反対がなかった。
医療キャンペーンは、単に医学に詳しいだけでは成功しない。医学的知識に加え、政治・経済・社会情勢に精通したアドバイザーを要する。医療に限らず、あらゆる分野で、竹中半兵衛のような名参謀が必要だ。