近中音頭と研修医時代
2015年8月8日、大阪市西淀川区千船に行った。
午後3時、39℃と焼け付くような暑い日がつづく。新佃公園に、「佃島慰霊盆踊り大会 表示」の櫓が組まれていた。昭和51年の病院忘年会の余興で行なった「近中音頭 表示」を想い出す。
昭和50年7月から3年間、伊丹市にある公立学校共済組合近畿中央病院で研修をした。近中音頭の作詞はM君、作曲・ボーカルは私が、振り付けはO君が担当した。
1.広い敷地に たたずむ病舎 白衣の姿 ちらりと見えて
病める心に 光を灯す ともに歌おう 近中のわれら ともに踊ろう近中音頭
ハアーーー チョチョイト チョチョイト チョチョイトな
2.病に倒れ 今日また注射 明日(あした)もわからぬ 命の炎
消してはならぬ 遠い夜空に 耐えて歌おう 近中のわれら
耐えて踊ろう近中音頭
ハアーーー ヨヨイノ ヨヨイノ ヨヨイノヨイ
最初の"広い敷地に"の部分は両手を真上に挙げる。"たたずむ病舎"の部分は、円を描くように左右の手を真横に下げて行く。そして、盆踊りのように、反時計回りに踊っていく。看護師さんたちと入念にリハーサルをし、講堂で行われた病院忘年会で披露した。
作詞をしたM君は医療法人理事長として、振り付けをしたO君は医師会長として、今は多忙な毎日を過ごしている。
近畿中央病院の3年間は、時間に余裕のある優雅な研修時代だった。同期のM君とO君と私は"悪童3人組"と呼ばれていた。看護師さんたちと夜、甲山に肝試しに行ったり、ボーリングに行ったりしていた。
昼の食事は内科部長らと伊丹空港のレストランに行ったり、午後から芦屋市にあるトイレの大きな喫茶店"クアドリフォリオ"に行ったりした。3時ごろには仕事が終わるので、病院内にあるテニスコート 表示で院長らとテニスをすることもあった。
近中では、遊ぶ時間ばかりではなく、勉強する時間も多かった。英語論文の抄読会を毎週行い、症例をまとめ分析して学会報告をしていた。富山での学会では、宇奈月温泉に宿泊し、黒部峡谷に行った。山形の学会では、蔵王観光に行き、裏磐梯のペンションに宿泊した。
家にはテレビがなく、当直や食事会のない日は、たっぷり時間があった。帰宅途中、芥川龍之介・太宰治・夏目漱石・森鴎外などの文庫本や、森村誠一・夏樹静子の推理小説を一度に5~6冊まとめ買いし、1日1冊主義で、夕方から夜まで4~5時間で一気に読破していた。
日本でもトップクラスの医療法人理事長は「私たちが研修医の頃は、時間に余裕があって、いろいろなことを学べたが、今の研修医はやることが多く、忙しくてかわいそうだ」と言われる。
近畿中央病院の研修時代は、私にとって幸せな時代だった。若い研修医時代は、2度と来ない。研修時代の友は、生涯の友となる。自由な時間をできるだけ作り、よく遊んで、よく学び、創造力をつけるとよい。