伝説の教授回診と総合診療医
2016年1月9日午後4時、リーガロイヤルホテル大阪で「第64回大阪大学第二内科同窓会」が開催され、200名が出席した。
午後7時から懇親会があった。後輩医師から「西川光夫教授は、どんな先生だったのか知りたい。西川先生は専門医で、総合診療医でもあったと聞いている」と問われた。
西川光夫教授(メタボ教室第11段)は、どんな分野でも幅広い知識を持つ総合診療医であるとともに、ハンマー1本で神経疾患を診断するスペシャリストでもあった。
教授回診では研修医の話を聴きながら、ハンマーのゴムの部分で上腕二頭筋・三頭筋・膝蓋腱・アキレス腱反射を、柄の部分でバビンスキー反射を診られていた。病歴と身体所見だけで、脳(大脳・小脳・脳幹)や末梢神経のどこに病変があるか診断される名医だった。
研修医時代の1975年、西川教授の回診には病棟婦長、病室係、各専門分野の指導医(消化器・内分泌・神経・血液・循環器)に、20人の阪大卒後1年目の研修医がついて回り、ベッドサイドは鈴なりになっていた。
西川先生の教授回診は緊張感があり、研修医の間で怖れられていた。私は脂質研究室の抄読会に毎週参加していたので、先輩から西川教授の回診に対するコツ①重要な数字は記憶しておき、カルテを見ずに話すこと②前の週とは違う新しいことを考えること、を教えてもらっていた。
肝疾患の患者はGOTやGPTの数値を覚えておいて、カルテを閉じたまま説明した。西川先生が腹部の触診をしながら、「肝臓が、先週より1横指大きくなっていますね」と言われた時は、1週間前の患者のことをよく覚えられていると驚いたことがある。
肥満患者は3カ月入院が多く、毎週新しいテーマを考えて回診で話した。「1000kcal、800kcal、600kcalの時の基礎代謝はどうなったか、体重は1日当たり何g減少したか」など、グラフを作って説明した。先輩のお蔭で、ただの一度も西川先生に叱責されたり、嫌な顔をされたりすることはなかった。
西川光夫先生は東大3内出身で、新潟大学から阪大の教授選に立候補された時、出馬しないよう医局長が新潟まで会いに行かれている。山崎豊子の小説「白い巨塔」では、この時のエピソードが使われ、金沢大・菊川昇教授の所へ出馬しないよう医局長が金沢に行っている。
先輩医師は「山崎豊子が阪大病院に入院していた時、病理の先生が"トヨコが呼んでいる""トヨコが呼んでいる"と言っては、頻繁に山崎豊子の病室に出入りしていた。白い巨塔は、病理の先生の話を基にできたのではないか」と言われていた。病理医は、内科・外科など各科に通じ、情報を得やすい。「チーム・バチスタの栄光」の原作者・海堂尊も病理医だ。
1980年、阪大病院にもCTスキャンが入り、CTやMRIで画像診断ができるようになり、ハンマーによる診断は、時代遅れになっていった。
阪大病院研修医時代、西川光夫教授の回診は、病歴と身体所見・簡単な検査だけで病気を診断し、病状を把握するものだった。今また、専門医だけでなく、総合診療医であることが必要だと見直されつつある。