人間ドックと「人生観が変わるとき」
2016年1月29日、東京にある京王プラザホテルで「第44回日本総合健診医学会」が開催された。
午前9時40分から1時間、特別企画があり、聖路加国際大学の日野原重明名誉理事長と、読売新聞東京本社の南砂(まさご)取締役調査研究本部長による対談「これからの医学、医療の展開」があった。
南氏は「日野原先生は、人間ドックを日本で広められた。成人病という言葉を、生活習慣病に変えられたのも日野原先生だ」と紹介された。
日野原先生は「人間ドックという言葉は、医師が作った言葉ではなく、保健同人社の人が作った。1年間航行した船をチェックすることを、ドックという。年に1度は人間ドックを受けて、体をチェックするとよい」と話された。
保健同人社に肥満の取材を受け、「暮らしと健康
表示」に肥満の記事が載ったことがある。私が監修した32ページの小冊子「食事で防ぐ肥満症
表示」も保健同人社だ。
日野原氏は「1970年3月、飛行機で福岡に行く途中、赤軍派にハイジャックされ、人質になった。あの"よど号ハイジャック事件"の時から、私の人生観が変わった。"これから毎日、人のために生きていこう。人の役に立つことをして生きていこう"と考えて生きるようになった」と話された。
私も2005年12月、インド
表示のジャイプール
表示で転倒。左鎖骨を複雑骨折し、8か月間リハビリをした。その時から人生観が変わり、「今日、何かが起こって死ぬかもしれない。1日1日を、大切に生きて行こう。言いたいことを言い、書きたいことを書き、明日はないと考え、自由に生きて行こう(メタボ教室第12段「健康寿命」)」と思うようになった。
日野原氏は「1995年3月のサリン事件の時は、聖路加病院の一般外来を閉じて、650名の患者を受け入れた。東京大空襲のような大災害が、いつ起こるかわからない。大勢の患者が押しかけてもいいように、聖路加病院内の待合室・廊下など至るところに酸素の配管をしておいた」と話された。
東京の医師から「サリン事件では、日野原先生ばかりが注目されているが、実際は違う。中心的に動いたのは防衛医大だ。防衛医大は、地下鉄サリン事件の前からテロが起きた場合を想定して、シミュレーションしていた。サリンによるテロだとすぐわかり、サリン事件発生直後から、聖路加病院など都内の病院に連絡し、サリンに対する治療法を伝えた。防衛医大の学生を総動員し対処した」と聞いていた。
当時、行政や国民の間には自衛隊に対するアレルギーがあり、1995年1月の阪神淡路大震災の時も自衛隊出動要請が遅れた。日野原先生は、マスコミによって創りあげられた"サリン事件のヒーロー"だと思っていたが、650人という多数の救急患者を受け入れられる施設を作っておられたことを直接聞き、先を見抜く力に感心した。
人間ドックを始められた日野原重明先生は、よど号ハイジャック事件で人生観が変わられたという。人間ドックで予後の悪い疾患だとわかった時、人生観が変わる人も多い。その日その日を、大切に生きて行こう。