佐々木禎子ストーリーと「INORI」・千羽鶴
2016年9月15日、ウェスティンホテル大阪で、佐々木祐滋氏による講演「世界につながるサダコストーリー」があった。
午前6時、第一部"佐々木禎子の一生"が始まった。佐々木祐滋氏は、ロックバンド"GOD BREATH"のボーカルで、「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子の甥(禎子の2歳上の兄の子供さん)になる。
祐滋氏は「禎子は2歳の時、爆心地から1.7kmの自宅で被爆。10年後の1954年11月、首にしこりがでた。翌年2月、広島赤十字病院を受診し、白血病と診断され入院した。
家は理髪業で、1日中働いても150円だった。輸血は800円、痛み止めのコルチゾールは2100円し、治療費がかさみ家を売ってバラックに住んだ。家の経済状態を知っている禎子は、痛みをこらえ、入院中1度しか痛いと言わなかった。
1955年8月、名古屋の高校から4000羽の折鶴が送られてきた。禎子は、鶴を千羽折れば元気になると信じ、入院中の人からもらった粉薬の包み紙、お菓子の包み紙など使い、8月中に千羽鶴を折った。9月からは寝たきりになったが、針を使って600羽ぐらい折った。
10月25日、12歳の若さで亡くなった。バラックの家の棚に、遺骨の白い箱が置いてあるのを見た同級生が、お墓を作ってあげようと募金を始め、全国の学校から集まったお金で、広島平和公園に原爆の子の像ができた」と話された。
祐滋氏は自作の「INORI」を熱唱された。禎子の「生きていたい」という祈りを綴った曲で、2010年の紅白歌合戦ではクミコによって歌われている。
午後7時10分、第二部は"世界につながるサダコ"で、祐滋氏は「カナダやオーストリア人が書いた"サダコストーリー"の本が、52か国で出版されている。
アメリカには、禎子が折った折鶴を5羽送った。3羽目は、ハワイのパールハーバー資料館に飾ってある。原爆投下の指示をしたトルーマン大統領のお孫さんに頼んで、展示することができた。劣化しないよう紙を分析し、照明も6秒間だけつくようになっている。800万円かかり、ハワイ広島県人会、ハワイ沖縄県人会、ハワイにあるオバマ大統領の母校の寄付により完成した。
今年、ケネディ駐日大使を表敬訪問した。ケネディ大使は、禎子の話をよく知っておられ、折鶴の折り方を教えてあげていたら、20分の予定が50分経っていた。オバマ大統領のヒロシマ訪問は、ケネディ大使の功績が大きい。
安倍昭恵さんとも交流がある。リオで安倍総理がマリオになった日、安倍夫人はハワイのパールハーバー資料館で、禎子の折った千羽鶴を見学された。安倍総理のパールハーバー訪問が実現するかもしれない。今年の秋からは、吉永小百合さんとコラボし、平和へのメッセージを発信する」と話された。
講演後、佐々木祐滋氏と名刺交換をした。名刺は、世界から送られてきた折鶴の再生紙が利用されていた。ケースに入った"禎子が折った折鶴"の実物を観せてもらったが、小指の先より小さい。禎子の父の実家は三次市にあり、よく帰省していたという。私の父の実家も三次市にあり、毎年帰省していた。
佐々木禎子(原爆の子の像)は、2歳の時原爆で被爆し、10年後の12歳の時白血病で亡くなった。「元気になって、学校に戻りたい」と祈りながら折った折鶴は、平和のシンボルとなり、世界に広がっている。