「東洋女子歯科医専の外国人留学生」展と満州・ロシア
2016年12月20日天皇誕生日、東洋学園大学から、「波濤を越えて~東洋女子歯科医専の外国人留学生」の小冊子と、特集展のポスター
表示が宅配便で来た。
東洋女子歯科医専は、日本各地やアジアの女性歯科医を育成するために創立され、戦後は東洋学園大学になっている。ポスターの裏面
表示には、母と満州国留学生の写真が、象徴的に使用されていた。写真
表示上がロシア人留学生で、中央右が母、左が山口県出身の日本人、下が中国人だ。4人が肩に手をかけあって、仲良く写っている。
東洋女子歯科医専は、1921年から1947年までの26年間に140名の留学生(中華民国・満州国・台湾・朝鮮・タイ)が卒業している。フィリピン・マレーシア・シンガポール・インドネシアからの入学者もいる。波濤を越えて~、文字通り外国人留学生は、海の上を何日もかけ、日本へ歯科医療を学びにやって来た。
卒業した140名は母国に帰り、ハルピン大学教授や台湾歯科医師会会長になるなど、その国の歯科医療の中心となって活躍されている。満州国からの留学生は国費で、優秀な学生が多く、首席で卒業した者もいる。卒業生は、留学生に力を入れていた奈良女子高等師範学校(奈良女子大)の105名より多い。
最も外国人留学生が多かったのは1936年で、入学者110人のうち30人が外国人となっている。新入生の名簿を見ると、上海・南京・湖北省・浙江省・天津・大同・大連・吉林省・京城梨花・平壌・基隆・台中・バンコクなどアジア各国の女学校から入学しており、国別では中華民国16名・満州国5名・朝鮮5名・台湾2名・タイ2名となっている。
母は「庄原から東京に行くまでが大変だった。庄原から芸備線・福塩線で福山まで3時間かけて行き、福山から夜行列車で東京に行った。混んでいる時には、男性は通路に座ることができたが、女性なので通路やデッキに一晩中立ったまま、東京まで行かなくてはならなかった」と言う。
日本人の1936年入学者80名は、樺太豊原・網走・富良野・滝川・札幌・函館・青森・秋田本荘・花巻・宮古・山形・宮城古川・福島・新潟新発田・新津・静岡三島・清水・愛知刈谷・津・滋賀信楽・京都・大阪・淡路・岡山・広島・柳井・香川・福岡・長崎島原・大分佐伯・宮崎など、全国の女学校出身者だ。
地方の歯科医療のため、1日かけて夜行列車に立ったまま、東京に学びに来た女子学生も多かっただろう。地方出身者は卒後帰郷し、地域の歯科医療に貢献している。
現在、中国とは東シナ海で、ロシアとは北方領土で問題を抱えている。東洋女子歯科医専1936年入学の中華民国留学生16名は、1937年日中戦争の勃発で、全員が途中退学している。急速に増加している中国人観光客も、戦争がはじまると、一瞬のうちに激減する。
特集展「東洋女子歯科医専の外国人留学生」は、2016年12月19日(月)から2017年5月12日(金)までの平日9:30~16:30、東京都文京区本郷にある東洋学園大学本郷キャンパス4号館6階で展示されている。
年老いてから、母はいつも学生時代の話をする。東洋女子歯科医専は、アジアの留学生が多かった。日本人・中国人・ロシア人が同じ屋根の下で暮らし、学んだ時代は母にとって一番楽しかった時代なのだろう。