舞鶴引揚記念館とシベリア抑留生活
2018年4月29日、京都府舞鶴市にある「舞鶴引揚記念館」へ行った。
午前11時25分、舞鶴引揚記念館に着いた。舞鶴に来るのは、赤れんが倉庫群に来て以来、2度目だ。舞鶴ゴールデンウィークのためか、駐車場には八王子・所沢・静岡・三河・富山・岡山・香川など遠方からのナンバーが多い。引揚記念公園から、新緑に囲まれた舞鶴港
表示、鶴の形をしたクレインブリッジが見える。
館内を巡った。戦後13年間で630万人が、日本に引き揚げている。中国・韓国・東南アジアなどからの引揚げは1947年に終了したが、ソ連だけ1958年まで長引き、舞鶴港が唯一の引揚げ港になって13年間で66万人を迎え入れた。
収蔵書類のうち、570点がユネスコ世界記憶遺産に登録されている。白樺の皮に、空き缶で作ったペン、煤で作ったインクで日記や詩が書いてあった。企画絵画展示室には、引揚者だった赤塚不二夫(天才バカボン)、ちばてつや(あしたのジョー)、北見けんいち(釣りバカ日誌)らが描いた回想絵画があった。
"語り部おばあちゃん"がおられたので、常設展示室と抑留生活体験室をもう一度回った。「ソ連に抑留された60万人は、2~4年間シベリアで、炭鉱の採掘や森林の伐採など強制労働を強いられた。1人350gの黒パンとスープカップ3分の1しか与えられなかった。黒パンは天秤で分量を量り、10gの違いでも喧嘩になった。夏に捕虜になったので、冬服は持っておらず、-30℃の寒さと飢えで5万5000人が亡くなった。
シベリアは極寒の地で、草も生えず、食べ物はない。排泄した便は臭いがなく乾燥しており、消化されなかった豆など出して食べた。ベッドは2段で、階級の高かった人は暖かい上段に寝た。死亡する直前の人は、暖かい上段に寝かせてもらい、遺体の衣服や持ち物は、みんなで分けた。教育者や満鉄、技術者など、日本の情報を持つ人やインテリは、暖かい家に住み、食料も与えられ、ソ連人と同じような生活をして厚遇された」と解説された。
語り部の話は、記載されていない具体的なことが多く、シベリア抑留生活の悲惨さを、より深く知ることができた。
午後1時25分、館内のレストランで、"肉じゃがランチ
表示"と"海軍カレー"を食べ、平引揚桟橋
表示に行き、平和の鐘を鳴らした。
以前、感染症が専門の医師と話をした時、「戦後間もない頃、大学で細菌学を研究していた時、国から"舞鶴で赤痢が集団発生しているので、すぐ舞鶴に行って原因を調査するよう"指示された。舞鶴に行って調査し、ソ連からの引揚者が、水源に赤痢菌を混入させたことが判明した。そのことを国に報告したが、新聞にはソ連からの引揚者のことは全く触れず、ただ単に『舞鶴で集団赤痢発生』とだけ書かれていた」と話された。
私は、「舞鶴市は、日本で最初にバイオテロが起きた街ではないか。国やマスコミは事実を隠蔽している」と思っていた。引揚記念館を見学し、「ソ連からの引揚者のうち、ほんの一握りの人がスパイや工作員で、大部分の引揚者は極寒の地で食料もなく強制労働を強いられた人たちだった。国やメディアが公表しなかったのは、ソ連からの引揚者に対し、偏見が起こらないように配慮した国やマスコミの優しさではなかったのか」と感じた。