美濃金山城跡と犬山「灯屋迎帆楼」の旅

2018年10月31日

    2018102728日、岐阜県可児市にある美濃金山城と、愛知県犬山市にある灯屋迎帆楼を巡った。

1027日午前940分、伊丹の自宅を出発、中国道・名神高速・中央自動車道・東海環状自動車道を通り、午後2時岐阜県可児市に着いた。父・甲元久人の実家は、戦国武将の森可成(よしなり)の子孫で、森可成が住んでいた美濃金山城に興味があった。

可児市兼山にある"戦国山城ミュージアム"には、「森可成は土岐氏に仕えていたが、土岐氏が斎藤道三に滅ぼされたため、織田信長に仕えた。1565年、信長により美濃金山城を与えられた。森可成の6男・森忠政は、豊臣秀吉に仕えた」と書いてあった。甲元家は森忠政の子孫で、江戸時代に岡山県美作から広島県に移り住んでいる。

父は甲元家の5男で、私の父方の従弟は16人いる。写真 表示は、19541月の甲元家一族で、最前列右から3人目が祖母(父の母)、その左にいるのが私だ。甲元家の当主・甲元眞之熊本大学考古学科元教授は退官後、永青文庫研究センター長となり戦国大名・細川家に仕え、文化庁に働きかけて熊本城の保存に尽力している。

美濃金山城跡に向かった。途中、森蘭丸が子供の頃遊んでいた"蘭丸の森"があった。本能寺の変で有名な森蘭丸は、森可成の3男になる。出丸 表示から苔むした山肌を眺めながら、急な坂道を登り、三ノ丸から二ノ丸へ行った。

山頂の本丸跡は平坦で、建物の礎石 表示と"史跡金山城跡・森可成公"の石碑 表示があり、眼下には木曽川 表示が流れていた。自力で山に登ると、達成感がある。石ころが多い山道で、下りは何度か足が挫けそうになったが、無事下山することができた。森可成公菩提寺「可成寺 表示」にも行った。

午後430分、愛知県犬山市にある「灯屋迎帆楼(あかりやげいはんろう)」に着いた。灯屋迎帆楼は国宝犬山城の麓にあり、木曽川沿いに佇む大正8年創業の老舗宿だ。客室は10室のみで、全室"半露天風呂付き"で2階がある。

"灯花(とうか)"に宿泊した。1階部分はリビング 表示、ツインベッドと6畳の間があり、部屋の前には木曽川が流れ、彼方に奥美濃の山並みが一望できる。左手にはダム、手前に鵜飼の船が見えた。冷蔵庫に備え付けの水・ジュース・ビールは全て無料で、部屋にある半露天風呂は"白帝の湯"と呼ばれる犬山温泉の熱いお湯が常時流れており、肌がツルツルになる。

階段で2階に上がると8畳の展望ルームがあった。キャッスルビューテラスにあるリクライニングチェアに寝転がって、虫の声を聞きながら、犬山城 表示がだんだんとライトアップされていくのを30分眺めた。美濃金山城は1601年解体され、木曽川を下って犬山まで運ばれ、犬山城の改修工事に使われている。

午後630分、個室ダイニングで食事をした。先附の"あおりいかムース 雲丹クリームキャビア添え"が旨い。前菜 表示には、木曽川で獲れた鮎甘露煮があった。焼物の"はた杉板焼き 秋の香り 表示"は、はたが薄い杉の板に挟まれて焼かれており、いい匂いがする。

念願だった、父方の先祖の戦国武将・森可成が暮らしていた美濃金山城跡を訪れることができた。満足度の高い犬山"灯屋迎帆楼"に宿泊することもでき、楽しい旅になった。

徳永勝人 医師
(とくなが かつと)
医学博士


1968年
広島県立庄原格致高校卒業
1974年
大阪大学医学部卒業

内臓脂肪型肥満、
標準体重=身長X身長X22
を提唱する肥満の
第一人者として活動中。

1983年-1985年
南カリファルニア大学
研究員
大阪大学第2内科講師
市立伊丹病院内科部長
大阪大学臨床助教授
兵庫医大実習教授
を経て
高槻社会保険健康管理センター
センター長として勤務

日本肥満学会肥満症診断
基準検討委員会委員
日本糖尿病学会評議員
日本動脈硬化学会評議員

NHK「きょうの健康」での
講師を務める。
著書に
  「肥満Q&A
  「食事で防ぐ肥満症」
 
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