大阪のホテル史と鈴木剛・松下幸之助
2019年2月21日、大阪市北区にある"クラブ関西"で異業種の会があった。
午後6時、安冨國詞(くにのり)元ウェスティンホテル大阪社長による「私のホテル事業開発・経営・運営のひとこまと、淡路夢舞台開発の事例」があった。安冨氏は、空中庭園で有名な新梅田シティや、淡路島にある淡路夢舞台の開発に関わっておられる。
安冨氏は「クラブ関西は、鈴木剛(こう)住友銀行頭取
表示が戦後発足された。鈴木剛は広島県可部で生まれ、庄原、福山で育ち、京大に行かれた。クラブ関西の歴史はクラブ関東より古く、日銀総裁が鈴木剛を訪ねてクラブ関西に来られた時、"東京にも、こんな所があればいい"と言われ、東京にクラブ関東ができた。
大阪のホテルは、小林一三の阪急グループ、アサヒビールの新大阪ホテル(後のロイヤルホテル)、鈴木剛のホテルプラザの3つが起源となっている。鈴木剛は、朝日放送の社長をしていた時、大阪にも国際的なホテルが必要だと考え、世界37の一流ホテルを見学し、大阪万博の前年1969年にホテルプラザを開設された。
戦前、松下幸之助が鈴木剛に融資を頼みに来た。"自分を大きく見せようとする経営者"が多い中で、松下幸之助は違っていた。松下幸之助は融資をしてくれた木村剛に恩義を感じていて、"ホテルプラザを全面的に支援する"と言われ、毎年12月26日から翌年1月6日まで年末年始をホテルプラザに宿泊し、原稿を書かれていた。"松下ホテルプラザ"と呼ばれることもあった。
新梅田シティは、積水ハウス・青木建設などが共同で作った。始め3棟連結の大型複合ビルが計画されていたが、鈴木剛の"ホテルは騒々しくなく、静寂な所がいい"との考えを引き継ぎ、ウェスティンホテルは2棟と離して建設した。鈴木剛はホテルプラザを作るとき、"淀川が近い。淀川の野鳥が来るような池があるといい"と言っていたので、新梅田シティには池のある円形庭園を作った。
淡路夢舞台は、関空の埋め立てのための土を採取した跡地で、淡路ウェスティンホテルや国際会議場を作った。緑の木を植え育つのに20年かかった」と講演された。
私の大学クラスメートの結婚式は、ホテルプラザが新阪急ホテルと並んで一番多かった。現在、私が定期的に会食するホテルはウェスティンが年7回、リーガロイヤルが年4回、阪急インターナショナルが年3回となっている。個人的には娘
表示の結納などウェスティンホテルを使い、今年2019年1月の結婚記念日は、中華料理「故宮
表示」で祝った。
午後7時25分から、懇親会があった。前菜の「的矢産・清浄牡蠣のエスカベージュ 三種のヴィネガー風味
表示」が抜群に旨い。右隣りは、ペイント会社会長で、「明石海峡大橋や瀬戸大橋の塗装をした」と言われる。魚料理は珍しい「鱈の白子のジャガイモ包み焼き」、肉料理は「白金豚バラ肉のコンフィ チリメンキャベツのプレゼ添え
表示」でどれも美味しい。
翌日2月22日、大手企業の産業医をしている大学時代のクラスメートに、"鈴木剛と松下幸之助の話"をすると、「鈴木剛は、大阪シンフォニーホールを作った人だ。私が勤務している会社の会長も、鈴木剛に融資を受けて会社を大きくした」と、鈴木剛のことをよく知っていて、驚いた。