国民皆保険制度の原点・広島県庄原市
2021年1月22日、関西テレビで「西村キャンプ場:広島県庄原市」を放送していた。
お笑いコンビ「バイきんぐ」の西村瑞樹が、地元広島で趣味のキャンプを楽しむ番組だ。今回は、広島県庄原市に行き、稲刈りを終えた田んぼをキャンプ地にする。のどかな庄原市の田園風景が広がる。ご飯を炊くため、西村瑞樹は山林で伐採し薪割りも行う。私の子供の頃も、風呂は薪を使って沸かしていたので薪割りをしていた。
広島県庄原市出身の故永山忠則自治大臣は1961年、故武見太郎日本医師会長とともに国民皆保険制度を作った。永山忠則は国民健康保険中央会会長を長く務め、武見太郎とも親しく、国民健康保険の第一人者と呼ばれていた。私の祖母・徳永弥寿子(写真
表示右端)は庄原婦人会会長で、永山忠則後援会の婦人部会長もしていた。祖母は、周囲に自然と人が集まるタイプで、私をとてもかわいがってくれていた。
国民皆保険制度の目的は、国民の命と健康を守ることが第一だが、患者の少ない過疎地救急医療を担う自宅開業医を守る仕組みでもある。1950年代、庄原市の80%は農家で、医療費を払えない人もあり、お米や野菜をもらうこともあった。
庄原市は集落が分散していて無医地区が23もあり、広島県は北海道の次いで2番目に無医地区が多い(メタボ教室第604段「無医地区」)。私が子供の頃、庄原市の医療は自宅開業医が担っていた。1949年6月1日産婆さんによって自宅で生まれ、1968年庄原格致高校を卒業するまで、一度も病院にかかったことはない。小学1年の1956年、夜中に虫垂炎になった時も、近くの外科自宅開業医を起こして緊急手術をしてもらい、担架で自宅に運ばれ自宅療養した。
過疎地の救急医療は自宅開業医が担い、1年365日24時間働いていたが、患者数は少なく時間的な余裕があった。自宅開業医は、午後からは子供と遊ぶなど自由な時間があり、地域の人からリスペクトされていた。国民皆保険制度ができてから、3割自己負担で患者数は増加し、過疎地の自宅開業医の経営は安定した。
新潟県出身の田中角栄は「日本列島改造論」で地方を活性化するため、新幹線や高速道路を作ったが、逆に地方の人が東京に吸い上げられ、地方はさびれた。広島県出身の永山忠則も同じように、過疎地の自宅開業医を救うため「国民皆保険制度」を作ったが、逆に都市部の医療の需要を増加させ、医師の地域偏在を生み出した。
新型コロナ禍、日本の病院は8割が中小民間病院で、都市部では新型コロナの救急対応を難しくしている。
国民皆保険制度は1961年、広島県庄原市出身の永山忠則自治大臣(国民健康保険中央会会長)と武見太郎日本医師会会長によってできた。60年後、日本は高齢化社会となり、医療の中心は農林漁村から都市に移っている。新型コロナに対応できる救急医療体制を作るため、皆保険制度の診療報酬など見直す時期に来ている。